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2009年12月28日(月)

【連載インタビュー】 ~第2回 藤原 新選手 ベルリンの経験を活かして~

チーム初となる日本代表として、今夏ベルリンで行われた世界選手権に出場した藤原選手。マラソン界期待の若手として臨んだレースは残念ながらほろ苦い世界デビューになってしまいましたが、その経験を糧にニューイヤー駅伝を戦うことを決意した藤原選手のこれまでの歩みを特集します。

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(長崎・諫早高校時代はどんな選手でしたか?)
都大路(全国高校駅伝)出場を目指して真剣に取り組んでいた真面目な...高校生でした。都大路には結局3年間で出場することはできませんでしたが、出場できなくて涙を流したりとかして、純粋な高校生でした。ただ、諫早高校は色々と厳しい高校だったので、当時は青春を棒に振ったなぁ...と思ったりもしていましたけど、今では陸上に打ち込んでいたことが青春だったって思えますね。

(どういったことが厳しかったですか?)
特にキツかったのは朝練習ですね。朝から8000m~10000mぐらいのペース走をそれなりに速いペースでやるんですが、それがとにかくキツかったです。雨が降ったら、その練習がなしになるので、当時はみんなで雨乞いしたりもしていましたよ(笑)

(ベストレース、印象に残っているレースはありますか?)
高校2年生の諫早ナイターですかね。10000mを走って当時の5000mのベストタイム(14分40秒)ぐらいで5000mを通過して29分42秒で走れました。当時の高2歴代では結構上位に入れる記録でしたし、走り終わった後に足が攣ったんです。力を出し切れたってことだと思います。そういうレースはこの諫早ナイターと2008年の東京マラソンの2つだけですからね。かなり印象に残っています。
それに、これだけのタイムで走れたことの要因として、フォームがしっかりハマったという感覚があったことがよかったです。高校1年生ぐらいから調子のカギはフォームや動きにあると思って取り組んでいて、それが1つ形になったレースでしたからね。その取り組み、考え方は今も変わっていませんし、今の自分につながるレースの1つと言えると思います。

(やはり高校時代からマラソンを意識していましたか?)
もともと、長い距離の方が得意でしたね。3000mよりは5000m、5000mより10000mといった具合に。だから将来やるならマラソンかなっていう思いは当時からありました。それに、顧問の松元利弘先生や周りの方々からもお前はマラソンいけるって言ってもらえたんです。自分自身で自信があったことに加えて、自分の能力を評価していただけたこともあって、マラソンへの思いは強かったですね。

(ちなみに、高校時代の同級生には今夏のベルリン世界陸上に同じマラソン代表として出場した藤永佳子選手(資生堂)がいますが、当時から親交はあったんですか?)
同じクラスでしたし、仲はよかったですよ。当時、藤永さんは高校生で日本代表として世界選手権に出場していましたけど、それに対してライバル意識を持ったりとか、そういうことは特にありませんでしたね。男子と女子で記録の伸びる時期は違うと自分の中では思っていましたし、性別の違いもあったので、素直にすごいな~ぐらいで。

(厳しい高校3年間を経て、拓殖大学に入学されましたが、入学のきっかけや理由を教えてください。)
まず、一番初めに声をかけてくれた、ということですかね。それに当時の監督さんが箱根だけでなくオリンピックなどを前提として練習していくとも仰っていたので、それに共感した、というのもありました。

(では、箱根を走ってオリンピックへ、ということを意識して拓大に入学に入学されたんですね)
それももちろんありましたが、当時の拓大はスピードの拓大と呼ばれるほどスピードランナーが結構多くて、28分台の選手が何人もいるような大学だったので、強くなるならこのチームだなって思ったことが大きかったですね。

(箱根駅伝に対する思いはどのようなものでしたか?)
自分の中ではですけど、「箱根=都大路の代わり」という意識がありました。高校時代は都大路を目指してやっていて、その目標を達成することができませんでしたから、大学の駅伝ではみんなで喜びを分かち合いたいという気持ちが強かったんです。だから、1年生の時に予選会を通過することができた時は本当に嬉しかったですね。悔しい高校3年間があったからこそ、そういう大きな駅伝大会の出場権を得ることができたことに人一倍感激していました。

(では、箱根を経験してマラソンへ、という意識はあまりなかったんですね。)
そうですね。都大路の延長のような位置付けでしたから、マラソンのスタートとしての箱根というよりは、1つのゴールと考えていました。マラソンは実業団に入ってから、しっかりとスタートするつもりでいましたね。

(その頃から実業団で競技を続けることを意識されていたんですね。)
高校→大学→実業団とレベルが上がっていく中で、自分自身の競技レベルも高めていきたいと思っていたので、実業団で続けることは常に意識していました。当然、実業団で続けるためには、それなりの結果が求められますから、自分なりにアピールすることも大切だと思って強くなろう、と。

(他にはどういったことを考えながら競技に取り組んでいましたか?)
大学には色々な人がいますから、チーム全体で頑張るためにはどうすべきか、ということを考えながらやっていました。一生懸命陸上に取り組んでいる人もいれば、そうでもない人もいるのがチームというものですからね。ただ、人を変えるというのは大変なことですし、チーム全員が同じ方向を向いてというのはそんなに簡単なことではないので、悶々として日々を送っていました(笑)でも、おかげで根性はついたと思います。

(チーム全体で頑張るための答えは見つかりましたか?)
当時は見つかりませんでした。最近になって思うのは、チームとして戦うためには統制をとってまとめていく、というよりは1人1人が頑張れる環境が必要だったんじゃないかなって思います。選手たちがやる気を出せる環境づくりとか、話のしかたなどの部分が大切かな、と。人がやる気を出せる場面と出せない場面を大学時代に自分のことも含めて目の当たりにできたことが、この考え方につながっているんじゃないですかね。

(やる気を出せる場面、出せない場面というのはどのような場面ですか?)
個人の考えとしては、やる気を出せる時というのは目指すものがはっきりしていること、そしてその目標に近づいてるっていう実感が持てた時だと思います。そういう実感が持てると、目標に向けて更にアクセルがかかるんですよ。逆にやる気をうまく出せない時というのは頑張ってもダメだという閉塞感を感じてしまった時かな、と思いますね。

(では、大学時代のベストレース、思い出深いレースを教えてください)
2年生の時の箱根予選会ですね。個人7位、日本人5位になることができて、タイムも59分42秒と、かなりいいタイムで走ることができました。このレースは、1年生の箱根(1区10位)が終わった後にずっと故障していて、練習に合流してから1ヶ月足らずで臨んだレースでした。それにも関わらず、この記録・順位で走れたことはかなり手応えを感じましたし、マラソンへの自信にもつながりましたね。高校時代からいろんな人から言われていた自分自身のポテンシャルを確認できたことも思い出に残っています。
もう1つは、大学4年生の12月に行われた記録会ですね。4年生の箱根は予選会を通過することができなかったので、全日本大学駅伝が終わった段階で引退だったんです。なので、自分で色々と試行錯誤しながら臨んだレースでした。自分で考えた練習をして、28分56秒のベストで走ることができたことは実業団でやっていくことへの自信につながりましたね。このレースを通して経験できたことが今のスタイルの礎になっていると思います。

(学生から実業団へ、JR東日本を選んだ理由は何ですか?)
自分で考えて組んだ練習で結果を残すことが楽しいと感じたこともあって、なるべく自分の色が出せるチームがよかったんです。ランニングチームはまだ創設して1年ぐらいで新しいチームでしたから、そういうチームなら自分なりに考えて競技に取り組むことができると思って決めました。

(学生と実業団の違いに戸惑うことなどはありませんでしたか?)
実業団といったら、日本では陸上の最高峰のリーグといえるので、その中でどこに目標を設定するか、という点で最初のうちは戸惑いましたね。個人レースはしっかり頑張らないといけないですし、駅伝もチームのために頑張らないといけません。それに加えて、最高峰の実業団の中でトップになることへの道のりの遠さ、目標の高さに正直面食らってしまいましたね。

(実際に仕事をしながら練習をするということはどうでしたか?)
最初のうちは右も左も分からないような状態でしたから、職場の先輩に教わるようにして、少しでも仕事を覚えようとしました。入社当時は経理課に配属されて、大学時代に商学部で勉強していたので、多少お金のことは知っていたはずなのに通用しなくて少し焦りましたね(笑)でも、その時に学んだことは部署が変わった今も役に立っていると思います。

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仕事中の藤原選手

(仕事をしながらの競技生活にもだいぶ慣れてきた中、2008年の東京マラソンでの見事な走りで一躍マラソン界の新星として注目されるようになりましたが、このレースを振り返ってみていかがですか?)
あの時は正直狙っていました。もちろん、自信満々というわけではありませんでしたけどね。試合前に中国の昆明で行った合宿でも、練習が設定通り出来ていないような状況でしたから。でも、その分ポイント練習以外で自分なりにアレンジして練習することはやっていました。だから周りの人に対しても、狙っていくと公言していましたし、それが結果につながったのかなと思います。

(自分なりにアレンジしてというのは、どういった練習をやったんですか?)
ジョギングの途中で400mぐらいを足がしびれる感覚になるまでダッシュするんです。昆明は標高が1800mぐらいあって酸素が薄いので、そういう感覚になりやすいんです。この足がしびれる感覚が大事なんですよ。

(藤原選手らしい練習ですね。高校時代からずっと取り組んできたことが実を結びましたね。)
高校、大学、実業団と少しずつ自分のレベルが上がってきていることは実感としてありましたし、年齢的にもそろそろ結果を出したいな、と思っていたのでよかったです。

(北京オリンピックは残念ながら補欠ということで出場は出来ませんでしたが、その悔しさを胸に臨んだベルリン世界陸上。初の国際舞台はいかがでしたか?)
一言で言えば、自分らしくないレースをしてしまいましたね。マラソンは何度も走っていますが、初めてスタミナ切れを起こしてしまって、全然自分のレースができなかったので。基本的に自分はスタミナ切れを起こすようなタイプではないと思っていただけに悔しかったですね。

(スタミナ切れを起こすようなタイプではないというのは?)
練習はこれまでにないぐらいしっかりと積めていましたし、自分の走りのタイプ的にスタミナ切れを起こすよことはないかな、と思っていました。自分なりにこの時の走りを分析すると、スタミナを消費するようなフォームで走ってしまったことが要因として考えられますね。

(世界デビューはほろ苦いものになってしまいましたね。)
走り終わって、意識はあるのに係員に抱きかかえられていた時は、自分は何をやっているんだっていう思いが込み上げてきました。でも、これが現実なんだなぁ...って思うと悔しい気持ちが強くなってきましたね。
自分の走りの長所は、自分の動きを認識し調子を動きでコントロールできることだと思っています。ただ、ベルリンでは自分の動きを客観的に見ることが出来なかったという意味で、世界大会の雰囲気にのまれてしまいましたね。

(でも、収穫も多いレースだったのでは?)
そうですね。マラソンに向けた練習の過程で、地力がついている感覚はつかむことができましたし、それはマラソンだけでなくトラックや駅伝にも活かすことができると思います。マラソンですぐにリベンジすることもベルリンの後は考えていましたが、その感覚をしっかりと研ぎ澄ませるためにも、まずはマラソン以外のレースをしっかりと走ろうと思えるようになりました。それが結果的に今後のマラソンにつながってくるとも思うので、ベルリンを走ったことは大きな意味を持つと思います。

(ニューイヤー駅伝で、ベルリンを経て成長した藤原選手を見られるわけですね!)
個人としてベストを尽くすことはもちろんですけど、チームの順位は年々上がってきていて、それにつれて上の順位を目指すためのハードルも上がってきていますから、厳しい戦いになるとは思います。でも、不可能なことだとは思いませんし、難しい挑戦だからこそ、チーム全員でベストを尽くして入賞に向けて頑張りたいですね。

世界を経験してこれまで以上にスケールの大きな選手に成長を遂げた藤原選手。
チームの顔としてプレッシャーもかかる中、チーム初の入賞に向けて全力を尽くすと宣言してくれた藤原選手の2010年最初の大一番。ぜひ、沿道やテレビで応援をお願いします!

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